若松山 法 覚 寺
- 真宗大谷派(東本願寺)-
法覚寺の由緒沿革-history-
※このページの項目1~3については平成7年8月20日発行『わかまつ 百年-わかまつ百年のあゆみ-』(若松開基百年実行委員会総務部編集)より抜粋編集して記載しています。
1 若松の開墾と共に
法覚寺の歩みは寺院の存立する地区「若松」の開墾とともに始まります。
明治二十九年に、福島県北会津郡若松(現在の会津若松)より穴澤祐造と笹原倉次郎の両人が開墾地を求めるべく測量のためこの地に入り、現存の祖松を発見し、その付近に農場の事務所なる小屋を建て開墾測量した結果、この地が開墾に適すると決め「若松」と名付けたのが この地名の由来と伝えられています。
さて、この若松の地における法覚寺の歴史は、明治三十四年(一九〇一)七月一日午後一時、若松開墾事務所における吉武是正の第一声により始まりました。吉武是正が岩城国若松市より北の海を越え、後志国太櫓村の和歌町にて布教の第一声をあげることとなった経緯について北檜山町史には、
「明治二十九年(一八九六)七月、福島県若松から移住した高瀬喜左衛門は、入地以来この地に寺を建て部落住民の信仰のよりどころにしたいと考え、主だった人達とも相談をしていた。
明治三十四年(一九〇一)五月、高瀬は当時既に職を退いていた郷里の法覚寺先住吉武是正に面談の機会を得たので、農場内に寺を建立することについての協力を願った。その結果、真宗大谷派東本願寺に属する法覚寺の説教所として設立することを協力しただけではなく、自らも渡道し、同年七月一日若松開墾事務所で布教の第一声をあげた。」
と記されています。
2 若松説教所の始まり
高瀬喜左衛門の要請を受けて決意した吉武是正は明治三十四年(一九〇一)六月二十五日、いよいよ渡道するべく出発します。
出発後は真宗大谷派仙台教務所に立ち寄り汽車にて青森へ、そこから汽船にて函館へ渡り函館別院に立ち寄り、六月二十七日に江差に着きます。翌二十八日に江差にて渡辺忠吉氏及び西忠義氏等と面会し、墓地その他教場の件について段取りをし、また江差別院輪番の天守哲隆と面会して説教所の件について相談をしています。
六月三十日、関内村を馬車にて出発し、途中午前十二時若松開墾事務所から出迎えに来た笹原倉次郎始め村惣代五名と昼食を取り、同日午後三時頃、若松村の人民一同の出迎えを受け笹原宅に落ち着きました。そしてその翌日七月一日、若松開墾事務所にて布教の第一声をあげたのです。
その後、吉武是正は民家を借り布教を続ける傍ら説教所の設立準備を進め、いよいよ下記の通り法覚寺の歩みが「若松説教所」として始まります。
法覚寺歴代住職
吉 武 是 正 若松説教所 初代担当教師
(明治41年8月滅)
吉 武 融 正 若松説教所 第二代管理者
(明治45年3月滅)(是正の父)
吉 武 賢 寿 若松山法覚寺 開基住職
(昭和39年3月滅)(是正の相続人)
吉 武 純 正 若松山法覚寺 第二代住職
(平成元年7月滅)(賢寿の子)
吉 武 文 知 若松山法覚寺 第三代住職
(現職) (純正の子)
明治35年(1902) 3月28日
9月21日
若松説教所設置認可。
入仏式を行う。
(部落民の協力により7月に開墾地内に説教所完成。)
説教所は真宗大谷派東本願寺所属若松説教所と称し、担当教師に吉武是正が就任。
3 法覚寺の誕生
説教所建立の経緯について穴澤祐造氏は明治三十九年九月二日『遊楽部園の記』の中に、当時移住された村民の生活の苦労と寺院建立への悲痛な願いを吐露しています。
この状況に思いを馳せる時、現代の我々としては明治の人の気骨、開拓魂に敬服し、ただただ驚嘆するのみです。
さて、説教所として始まった法覚寺は下記の通り歩みを進め、いよいよ寺院として落慶を迎えます。
大正 9年(1920) 7月 4日
10年(1921)10月11日
14年(1922) 月 日
15年(1926) 2月 日
昭和 2年(1927) 6月26日
昭和 2年(1928)12月 2日
昭和43年(1968) 月 日
寺号公称の出願。
寺号公称の認可を受く。真宗大谷派所属若松山法覚寺となる。
法覚寺本堂・庫裡新築の議成る。
用材の伐採・運搬に着手。
上棟式。
入仏式を挙行し、落慶法要を勤める。若松山法覚寺開基住職 吉武賢寿
納骨堂落成。
こうして法覚寺は誕生し、現在にいたります。なお、昭和六年九月十六日、午前九時若松神社において盛大に行われた若松開村三十五年祭の記念誌の中に、若松説教所設立から法覚寺落慶に至るまでの経緯について記載されています。
4 ルーツを辿って
~福島県会津若松との繋がり~
会津若松の関係寺院
但 心 寺
お ま け
山形県の居酒屋にて長命寺、但心寺、法覚寺の3名で会食。楽しいひと時を過ごし、ご縁の深さに感動しました。
長 命 寺
長命寺築地塀
戊申戦争 会津藩士戦死者の墓
長命寺は、本願寺第12世教如上人によって江戸時代初期に建てられた本願寺輪番(寺役を順番に交替して務める出先機関)より興り、その後、保科正之公の時代に、現在の場所へと移された。
長命寺の築地塀には五本の定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い横線が走っており、これは長命寺が別格本山であることを表している。
この地では戊辰の役における会津若松の市街戦で激しい戦闘が繰り広げられ、この築地塀には当時の戦いの激しさを物語る弾丸の痕が多く残されている。
長命寺墓地には会津藩士戦死者の墓があり、145名が埋葬されている。